どすみちゃん日記

一人暮らし、どすみちゃん

りんご

はてなブログって、たぶん記事内のキーワードに引っかかった全然知らない人が見に来てるんだよね。わたしはどうですか?面白いですか?意味不明?(口裂け女が質問するときの気持ち)

 

実家からりんごが届いた。昨日は職場のお姉さまからりんごのケーキを1ホール頂いて、夜中にひとりで食べた。めちゃうまかった。学生のとき、りんごのジュースをおごってもらったことが数回ある気がする。ああわたしはりんごっぽいんだなと思って記憶している。りんごはオレンジより優しい感じがするよね。励ますときに使われるイメージなのかもしれない。わたしの頰の形がりんごを連想させるのかもしれない。病気のときに飲みたくなるし、古い絵の具で中毒みたいになったときに飲んで落ち着いたこともあって、りんごはほんとに助けてくれる感じがする。

 

優しい人に会いたいな、会いに行こうかなと思って想像して泣いて、なに悲劇のヒロイン気取ってんだろって思った。実際に会ったらたぶん泣いたりしないで、普通に笑顔で、でもちょっと元気ない感じで話すんだと思う。いつもそうじゃない?わたしが人前で元気ないときって、言いたいこと言えてないんだろうな。すごく会いたくて会いに行って、言えないんだよな。気持ちがただ自分の都合だけで重すぎて、久しぶりに会った人に渡せるような言葉にならない。それはその人だけに対する重さじゃないから。そういう重さを一緒に背負うのが友達だったり家族だったり恋人だったりするんだろうかと考えることがもう重い。痛い。こういうふうに書いている自分を、裏の顔と認識してしまって、表で仲良くしようとしている人たちへの後ろめたさになり、これ以上踏み込めないと感じる。だから日記を読んでもらうことで、なにか、救われようとしている。べつに感想とか無くても、これを知っている人がいるだけで少し安心する。過去の自分の日記を読まなくなった。読みたくない。8月まで地獄みたいだった気がして、思い出したくない。いまとは別の世界だから、その頃の自分と整合性がなくてもいい。生々しく思い出したくない。自分の脳が、少しずつ記憶を美化しているところだと分かる。そうしないと生きていけないみたい。美化しきってから振り返ったときが自分の作品になると思う。

カミーユ・アンロの展示は、美術は美術の知識や技術だけでは美術にならないんだと強く言っていた気がする。それが自分の言いたいことだから、そう感じたんだと思う。いろんなジャンルの本と生け花を繋げることとか。人生と物質と知識、収集、鑑賞によって繋げられること自体が作品になっていく。鑑賞に言及してしまわないことが重要かもしれない。クールでもある。ひそかに生起するものをどうしようもなく抱えてしまう。もはや美術の話じゃない。人がそこになにを求めているか。人は悩みたいのかもしれない。

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